アーチの起源と年代
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今回の最大の収穫は「私の眼鏡橋の謎」が解けたことです。

私が石橋に興味を持って活動し始めた頃は日本において、眼鏡橋や石積みアーチはローマ時代にその技術が発明され盛んに建造されたと考えられていました。

私はそれに従ってローマ時代遺跡のアーチを訪ねて来ました。そこには多くのアーチがありましたが全て成熟したアーチで変化は装飾や配置のみでした。何処かに生まれたばかりの幼稚なアーチが存在するはずだと思い巡礼を続けてきましたが、見つけることは出来ませんでした。いったいアーチは何時誕生したのか、ずっと考えていた疑問です。

そのうち遺跡の中にローマ時代以前のギリシャ時代(ヘレニズム時代・紀元前4世紀から1世紀)のアーチが各地に存在することが判りました。

1、エジプト・ルクソールのマディーナト・ハブ神殿(ラムセス3世葬祭殿)の参道脇、ヘレニズム時代に建造された小神殿の天井

2、スーダンのヌビヤ王国遺跡の地下室や墳墓の天井

3、ギリシャ・ペロポネス半島西海岸のほぼ中央のオリンピア(地名)に在る、競技場遺跡の選手入場門。

4、ギリシャ・ベルギナの遺跡(マケドニヤ最古の都)。アレキサンダー大王の父フィリポス2世の墓室の天井。

5、トルコ・ペルガモ遺跡。アスクレピオン(医療施設)の神殿周りの回廊と瞑想室の天井

6、トルコ・エフェソスの遺跡。紀元前10世紀頃から栄え、紀元前5世紀以降支配者は変わるが都市としては栄えていた。ローマ時代のも含めてアーチが沢山ある。

7、イタリヤ・ローマ・ティヴェレ川の石橋群。ミルビオ橋(紀元前109年)・ ファブリチォ橋(紀元前67年)は現存。ローマ帝国以前の共和制時代

8、ローマの下水溝。紀元前6世紀から設置され当時は開渠であったが、街が発展するにしたがって、アーチによる蓋がかけられた。少なくともギリシャ時代。一般公開されていないが、ビデオ・写真等では紹介されている。

No1~8のアーチは全て成熟したものでローマ時代と比較し遜色無いものです。

ギリシャ時代にはアーチ技術は既に完成していた。これだけ各地に存在することは、当時地中海沿岸付近で興亡を繰り返していたこの地域全体に知られていたといえます。もっともギリシャ・エジプトなどの地上構造物は「石柱に梁」の建築物が主流となっており、アーチはで地下に設けられ脇役だったと思えます。

更に中国では

9、中国・武威市雷台漢墓(張将軍)の天井・後漢時代(紀元3世紀~1世紀・ローマ帝国初期)

 

10、中国・玉門関の城壁門(紀元前19年。現遺跡はもっと後期の説もある)

現存は上部が尖がりのアーチ。日干し煉瓦積なのでアーチか持ち送り構造であるが風化で変形しており、原形は想像するしかない。

No9とNo10からはローマ帝国初期(帝国制は紀元前27年以降)、既にアーチ技術は中国まで伝来していた。

中国史では前漢の武帝時代(在位紀元前141~前87年)に西方への使者張騫と宿敵匈奴を倒した霍去病将軍等によってシルクロードが開かれたとある。西方の文物が伝来した、特に武帝が垂涎の的の「汗血馬」の伝来が有名な史実。ローマ帝国成立より100年余も以前、アーチ伝来の時間は十分にあった。

また、No9の煉瓦の積み方に独特の部分があることから、

1、      西方から直接理論と建造技術が伝来した。

2     アーチ型にすることで空間を確保できる知見だけが伝来して、建造は中国独自の技術による。

3、      アーチは中国で独自に発明・開発された。

などが宿題として残る。

但し、これらについてはもっと遺跡のアーチを探し、時代とアーチの進化度を確かめなければ断言できません。特に最近発見された曹操の墓ではないかと言われている墳墓は、7室でその天井は厚さ1mの煉瓦アーチ構造・後漢時代・おくり名「武王」であることまで発表されており、今後一般公開されると中国におけるアーチの歴史に光が当たる。

いったいアーチは何時誕生したのか、永いこと私の頭を離れない疑問でした。

 

今回の旅で生まれたばかりの幼いアーチにやっと出会うことが出来ました。

ギリシャ時代から遡ること1000年以上の昔、ヒッタイト王国時代です。

ヒッタイト人は紀元前2000年頃アナトリヤ地方(現トルコの地)に侵入し王国を創り、紀元前1750年頃統一王国になった。エジプト王国ラムセス2世とのカデッシュの戦い・その後和平が有名。紀元前13世紀海の民の侵入で滅亡した王国です。

首都はトルコ中部のヤズガット付近にあるハットシャスの遺跡です。土盛の城壁の下に開けられたトンネルにそのアーチは存在していました。

添付の写真をご覧下さい。場所条件が悪く判りにくい写真ですが判読下さい。

両側の積み上げる石を少しづつ内側にずらし、上部はわずかに円弧を描きながら頂部を楔石(要石)で押さえ込んでいます。頂部に大きな石を蓋状に置いたものと明らかに違い、まさに誕生直後・ヨチヨチ歩きのアーチです。

この形にすると上からの荷重を両脇にそらせ、下部に空間が確保できることを理解し、築造方法も会得したと判かります。

以上のことから、アーチの誕生は少なくとも紀元前13世紀より以前。その約1000年後のギリシャ・ヘレニズム時代には既にアーチ技術は完成していた。その後ローマ時代には主流となって大きく発展・アーチの花が開いた。この結論は推論ではなく、私が訪ね歩いた遺跡が物語るものです。

かといって「アーチのローマ」「ローマのアーチ」を否定するものではありません。歴史上同じような事例はあります。例えば前述のヒッタイトです。

ヒッタイト人は鉄を生産し、他の民族よりいち早く鉄の武器と鉄の戦車を駆使して近隣を制覇し一大王国を作り上げました。このことから「鉄のヒッタイト」「鉄文明のヒッタイト」と呼ばれております。しかし製鉄技術も冶金技術もヒッタイト人より昔の民族が発明確立しております。これらを含めて前述の名称が使われております。

アーチの場合も大きく花開いたローマ時代を称して「ローマのアーチ」と云って差し支えないと思います。

アーチの起源を探すというのは容易ではありません。この時代の記録は文字(石碑やレリーフ)・レリーフの絵・副葬品などしかありません。勿論これらからアーチの情報など得ることが出来ず、いきおい現存する遺跡を訪ね歩くことになりました。

 

各地に誕生した文明にそれぞれにアーチが発生したかというと、どうもそうではありません。中米のインカ・アステカ・マヤ等。アジアではインダス流域やインドシナ半島のアンコール・クメールなどの地域にはその形跡はありません。

インドにはギリシャ時代に比べてずっと新しいが、ムガール朝(16世紀~)以降タージマハール始め美しいアーチが沢山ありますがこれはイスラム教と共に伝来したものです。17世紀に中国・西双版納(シーサンパンナ)州建水市の双龍橋は「インド人」の建設で技術輸出もしております。

南米で観たアーチは全てスペインの侵略以降です。中米グアテマラ・ホンジュラス辺りはまだ訪れておりませんが望みはゼロです。

あと可能性に淡い期待が望めるのは、中国・三星堆遺跡(別名青銅仮面王国。3300年前。成都から北東30Km広漢市)です。1929年に存在が知られ発掘が続けられ、1984年(わずか25年ほど前)世界中が驚くほどの品々が出土しました。これにより今まで大河流域の文明発祥は世界四大が世界五大になる可能性が出てきました。素人の私が見ても見事さ・独自の文化というのがはっきり判ります。特に青銅仮面(高67Cm・幅137Cm)の巨大さと独特な風貌、300Kgにもおよぶ面を造った鋳造技術。大小の青銅釣鐘36個の打楽器「編鐘」・二段横並び配置は二人以上の奏者で、当然和音のある演奏が想像できる。

日本の埴輪の時代より2000年以上昔の揚子江上流文明に驚きました。

黄河文明では殷と同じ時代です。黄河文明と違って文字を持たなかった、あるいは未発達のため歳月の中に埋没したと思えます。まだ調査中で遺跡は開放されておりません。開放されたら墳墓など地下構造物にアーチがあったら・・・・・と期待しています。

ナイル・チグリスユーフラテス・地中海沿岸そして黄河のユーラシア大陸の地続き地域は互いに関連があり、技術伝播によってアーチを建設したと思えます。

アーチの発生の場所と年代についてエジプト・イラク辺りに6000年前とする説があります。勿論現物が無いので何かの資料によるものと思えます。

古代エジプト遺跡にはアーチは無かった、有名なギザのクフ王(紀元前26世紀)のピラミッドの内部は持ち送り構造で上昇通路(大回廊)・合掌(迫り持ち)構造で王の間などで空間を確保している。このような構造はマヤのチチェンイッツア遺跡とカリブ海岸よりの遺跡に有ったことは記憶しており、他の遺跡でも見かけたがアーチではないので無視し所在は覚えていない。

ただ、私は見ていないがクフ王の孫メンカウラーのピラミッドにはアーチ構造があるという、とすれば最古のアーチ(紀元前26世紀)ということになる。

遺跡を巡礼してイタリヤ半島・アナトリヤ・チグリスユーフラテス辺りにアーチの知見と建造技術が最初に発生したのではないかと思っています。

今回の旅でアーチは紀元前13世紀以前に発生したことは判りました。

以上を知識として皆様にお知らせいたします。